北陸大学卒業生 ロングインタビュー
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文理融合のキャンパスで
「社会に役立つ人」を育てる
「社会に役立つ人」を育てる
北陸大学理事長
医学博士
医学博士
小倉 勤 氏

文理融合のキャンパスで
「社会に役立つ人」を育てる
「社会に役立つ人」を育てる
北陸大学理事長
医学博士
医学博士
小倉 勤 氏
石川県白山市出身。1983年北陸大学大学院薬学研究科修士課程修了、1987年金沢大学大学院医学系研究科博士課程修了。1988年より国立がんセンター研究所(現在国立がん研究センター)、生化学部室長、がん治療開発部室長、がん組織生理機能解析プロジェクトリーダーを歴任。2000年「一酸化窒素によるアポトーシス抑制機構の解明」で田宮賞受賞。2005年北陸大学薬学部教授に就任。副学長兼薬学部長などを経て、2012年学長に就任。学長と兼務で2013年理事長に就任。2024年3月より学長を退き、理事長として大学運営に専念する。
大学創立から半世紀。これからの社会を自らの力で生き抜く人材を育てるべく、「学生の成長力No.1の教育を実践する大学」を目指し大学教育の強化に取り組む北陸大学。改革の旗振り役を務める小倉勤理事長に胸の内を聞きました。改革の背景には、北陸大学の卒業生としての矜持と、母校への熱い思いがあります。
芝生の上で「これから」に思いをめぐらせた学生時代
小倉理事長は地元石川出身で、薬学部の3期生として入学されました。なぜ薬学、なぜ北陸大学だったのでしょうか。
私が入学した頃は、北陸大学といえば薬学部がある大学だということは知られていても、どういう大学かというのは誰も知りませんでした。なぜかといえば、卒業生がいない。北陸大学を卒業した人間が、こんな分野で活躍しているという実績が何もないんです。受験する大学は名前で選ぶのが一般的な時代です。同期の多くは第一志望に落ちたからここに来たという人が大半でした。私も同じで、どういう大学なのか分からずに入学を決め、行けば何か見つかるだろうと、そんなふうに考えていたんです。
1年生の頃は教室よりも屋外の芝生の上で過ごす時間のほうが長かったかもしれません。何をするわけでもなく、自分はこれでいいのか、これから何をしようかと思いめぐらせていました。
1年生の頃は教室よりも屋外の芝生の上で過ごす時間のほうが長かったかもしれません。何をするわけでもなく、自分はこれでいいのか、これから何をしようかと思いめぐらせていました。
当時のキャンパスはどんな雰囲気だったのですか。
関西・中部圏出身の学生が多く、地元出身者も学力優秀な学生もいれば、勉強はさておきバイタリティあふれる学生もいて、本当に多様性に富んでいました。そうした環境の中で、いわばギブアンドテイクのユニークで強いつながりが生まれ、今も同窓会にその絆が継承されています。
つい先日、私も1977年度入学者による「七七会」の集まりに参加してきました。伝統ある大学ならスタンダードな卒業生像があるのかもしれませんが、私たちの世代の北陸大学卒業生は、型にはまることなく、驚くほどたくましく、皆さまざまな分野で活躍しています。
つい先日、私も1977年度入学者による「七七会」の集まりに参加してきました。伝統ある大学ならスタンダードな卒業生像があるのかもしれませんが、私たちの世代の北陸大学卒業生は、型にはまることなく、驚くほどたくましく、皆さまざまな分野で活躍しています。
母校を離れ、母校を思う
明確な目標があって薬学部に入学したわけではないとのことですが、研究への道はどのように開かれたのでしょうか。
薬学に興味を持ったのは2年生のときです。その頃、細胞から分泌されるインターフェロンという物質ががんに効くというニュースが世間を騒がせていました。私はそれまで薬学といえば有機化学の世界だと思っていたのですが、生物学的、医学的なアプローチができるのだと初めて知り、興味を持ちました。当時薬学部には、通常は医学部にしかないようなウイルス学を学ぶ教室がありました。その研究室を訪ねたのが、研究者の道を歩む第一歩になりました。
大学卒業後は、研究を続けるなら医学に進むべきだいう研究室の先生の勧めもあり、金沢大学の大学院に進みました。ちょうど北陸大学にも博士課程が設置されるタイミングだったため、当時の越浦良三学長には「北陸大学に残ればいいのではないか」と毎日のように説得されました。しかし、設置されたばかりでは研究環境が整っていないのではないか、そして何より自分は医学的なことを学びたいという思いを伝え、半ば無理やり飛び出しました。
大学卒業後は、研究を続けるなら医学に進むべきだいう研究室の先生の勧めもあり、金沢大学の大学院に進みました。ちょうど北陸大学にも博士課程が設置されるタイミングだったため、当時の越浦良三学長には「北陸大学に残ればいいのではないか」と毎日のように説得されました。しかし、設置されたばかりでは研究環境が整っていないのではないか、そして何より自分は医学的なことを学びたいという思いを伝え、半ば無理やり飛び出しました。
ロールモデルとなる先輩がいない時代に他大学の大学院に進学するというのは、苦労したことも多かったと思います。
付属病院やがん研究所など、いろんな部署の医師と話す機会がありましたが、どこに行っても必ず「どこの出身ですか」と聞かれます。当時は地元でも北陸大学の知名度は高くありません。引け目を感じて「金沢出身です」としか言えず、そのたびに忸怩たる思いに駆られました。
そんな中で私ができることは、とにかく頑張ることでした。私は研究の技術には自信がありました。医師は医療の技術はあっても、研究の技術はないことが多いですから、自分の強みを活かし、寝る間を惜しんで研究をしました。
そんな中で私ができることは、とにかく頑張ることでした。私は研究の技術には自信がありました。医師は医療の技術はあっても、研究の技術はないことが多いですから、自分の強みを活かし、寝る間を惜しんで研究をしました。
国立がんセンターでキャリアを積む
学位取得後は、東京の国立がんセンター研究所(現在国立がん研究センター)で研究に従事されました。
人のご縁があって国立がんセンターのリサーチ・レジデントとして採用され、ウイルス部で白血病の研究に携わりました。同僚には、後にがんセンターの理事長を務める中釜斉氏、星薬科大学の学長に就任した牛島俊和氏など錚々たるメンバーがおり、知見と人脈を広げるという面でも恵まれた環境でした。
リサーチ・レジデントの期間終了後は、同センター総長で、日本のがん研究の第一人者である杉村隆先生に誘われ、生化学部の研究員になりました。華々しい経歴を持つ医師が集まる環境で、再び「どこの出身ですか」と質問されることが増えました。そのとき初めて「北陸大学です」と、堂々と答えることができたんです。 ただ、卒業生の話題になると、歴史が浅いだけにアピールできることがありません。そこで初めて、自分が卒業生として母校に貢献したい、後輩のために頑張りたいという思いが芽生えました。
リサーチ・レジデントの期間終了後は、同センター総長で、日本のがん研究の第一人者である杉村隆先生に誘われ、生化学部の研究員になりました。華々しい経歴を持つ医師が集まる環境で、再び「どこの出身ですか」と質問されることが増えました。そのとき初めて「北陸大学です」と、堂々と答えることができたんです。 ただ、卒業生の話題になると、歴史が浅いだけにアピールできることがありません。そこで初めて、自分が卒業生として母校に貢献したい、後輩のために頑張りたいという思いが芽生えました。
教員として北陸大学に戻ることになった経緯を教えてください。
千葉県柏市のがんセンター東病院の研究所の立上げに携わり、部長待遇のプロジェクトリーダーを務めていた頃、「薬学部が6年制になるにあたり、卒業生を教職員として迎えたい」という話しが舞い込んできました。当時の河島進学長は学生時代の恩師でもあり、その思いに応えたいと母校に戻りました。
久しぶりに訪れたキャンパスは、何十年前の校舎が変わらない姿であり、当時から知る先生方、あるいは知った顔の先輩・後輩が研究室を構えていました。旧交を温めながら自分自身の研究環境を整えていきましたが、学生の指導に携わるようになると、自分自身の研究をするというより、学生を一人前にしたいと思う気持ちのほうが強くなりました。
久しぶりに訪れたキャンパスは、何十年前の校舎が変わらない姿であり、当時から知る先生方、あるいは知った顔の先輩・後輩が研究室を構えていました。旧交を温めながら自分自身の研究環境を整えていきましたが、学生の指導に携わるようになると、自分自身の研究をするというより、学生を一人前にしたいと思う気持ちのほうが強くなりました。
上画像/薬学キャンパス
下画像/太陽が丘キャンパス
研究者から教育者、大学の改革者へ
2012年には卒業生として初めて学長に就任し、大学改革に着手されました。
改革の軸は、大きくは薬学部偏重の解消と、学部・学科の発展的な改組です。
薬学部の入学定員は、無理のない規模に削減しました。また教育内容をより明確に示すべく、未来創造学部を改組し「国際コミュニケ ーション学部」「経済経営学部」を設置しました。医療系の学びでは、薬学との連携を踏まえつつ人生100年時代を支えるコメディカルの育成を目指し「医療保健学部」を開設しました。新学部の設置にあたっては金沢大学時代の人脈が非常に役に立ち、さまざまな支援を得ています。
私の学生時代のエピソードになりますが、北陸大学創設者で初代理事長の林屋亀次郎先生が入学式でおっしゃった「北陸大学は総合大学として頑張る」という言葉が印象に残っています。北陸大学が〇〇薬科大学ではなく、北陸大学という名称でスタートしたことには、後に他の学部をつくりなさいとのメッセージが込められているのです。創設者の志を受け継ぎ、北陸大学は文理融合の総合大学として成長していきます。
学生には、各学部の中で学びを完結させるのではなく、学部をまたいだ共同作業や交流、コミュニケーションを通じて、専門性プラス人間力を磨いてほしいと期待しています。これは私自身が学生時代に経験した、多様性に富んだ大学の風土にリンクします。
薬学部の入学定員は、無理のない規模に削減しました。また教育内容をより明確に示すべく、未来創造学部を改組し「国際コミュニケ ーション学部」「経済経営学部」を設置しました。医療系の学びでは、薬学との連携を踏まえつつ人生100年時代を支えるコメディカルの育成を目指し「医療保健学部」を開設しました。新学部の設置にあたっては金沢大学時代の人脈が非常に役に立ち、さまざまな支援を得ています。
私の学生時代のエピソードになりますが、北陸大学創設者で初代理事長の林屋亀次郎先生が入学式でおっしゃった「北陸大学は総合大学として頑張る」という言葉が印象に残っています。北陸大学が〇〇薬科大学ではなく、北陸大学という名称でスタートしたことには、後に他の学部をつくりなさいとのメッセージが込められているのです。創設者の志を受け継ぎ、北陸大学は文理融合の総合大学として成長していきます。
学生には、各学部の中で学びを完結させるのではなく、学部をまたいだ共同作業や交流、コミュニケーションを通じて、専門性プラス人間力を磨いてほしいと期待しています。これは私自身が学生時代に経験した、多様性に富んだ大学の風土にリンクします。
すべての卒業生が胸を張れる大学に
50周年を迎え、北陸大学が果たすべき使命については、どうお考えですか。
大学の使命の本質は、社会に役立つ人間を育てることに尽きます。この使命を果たすためにも、卒業生の存在は非常に重要です。私が若い頃は、卒業生の活躍を通じて母校の魅力を語ることはできませんでしたが、今は多くの薬剤師を輩出してきた実績が知られるようになっています。ですが、それだけでは十分ではありません。文理融合の総合大学として、さまざまな学部の卒業生が社会で認められるようになってほしい。すべての卒業生が「母校はこんな大学です」と胸を張って言えるような大学でありたい。そこに向かって教育のあり方を考え、卒業生の輪を充実させていきたいと考えています。
母校で学ぶ後輩へのメッセージをお願いします。
私自身、学生時代に得たものの中で何が一番かといえば、自分は何ができるのか、何をしたいのかを考える時間を持てたということです。どこでどう過ごしても時間は流れます。予定を埋めるより、自分を見つめて考える時間を持つことで、得られるものがあります。学生の皆さんには、「忙しい」を口ぐせにせず、ぜひ考えるための時間を大切にしてほしいと思います。
(2024年7月24日取材)